旅前の記録

旅前の記録

文章を書いて、消して、書いて、消して。旅の前に何かを書かなければならないけど、日毎に感じることが変わるので、言葉をとらまえるのに追われている。わたしの中にはこんなに言葉にされていない何かがあったんですね、とあらためて気づいている次第です。

 

少し残念で、さみしい。
そんな感覚に気づいたのは最近のことだ。

 

先日、向田邦子の『阿修羅のごとく』を観た。四姉妹とその家族の日常と秘密を描いた悲喜劇。それぞれの事情の総体が、たまたま家族という形(なり)をしているだけ。人は非常にそれぞれなのに、何かを形づくらなければならない。ならないこともないのだけど、わたしたちは何かに括られ、属して、それらの影響を少なからず受けている。

 

勝手だなぁ、と思う。
わたしも、だれかも、図らずも影響を及ぼし及ぼされて生きている。個の存在はどこまでいっても個で、それは究極的には補いようがない。だから、家族であろうと、職場であろうと、国であろうと、わたしたちが形づくるものはすべて、拡大すると歪(いびつ)だ。
歪さに対して、わたしたちは『人それぞれね』と言って、寛容性や多様性という概念で理解をしようとする。もしくはもっと暴力的に、我々こそが、と他を認めない。

 

わたしの少しの残念さと、少しのさみしさは、それをわかっていながら、やっぱりどこかで何かに期待しているからやってくるのだ。とはいえ善なるものがあるはずだと。具体的には言語化できないけど、なんだかきっとそうだろうと思う。

 

『そしたらさ、行ってみたらいいじゃん』
飲み会の席で友人に勧められた国、ザンビア。そういえば別の友人の赴任地でもあった。具体的に先のように思ってることを伝えたわけではなかったけど、きっかけは突然やってくるものだ。
なんと。アフリカという旅先は、我ながら思いもよらない選択肢だった。しかしその数日後にはチケットを手配した。ただただ、遠くに行きたかった。

 

大陸が異なり、言語が異なり、文化が異なり、風土が異なる彼の国で、わたしは何を同じと感じ、何を違いと感じるのだろう。世界にはそれぞれの正しさが存在して、互いに矛盾することもある。旅という理由を使って、何かを突き詰めるのではなく、感じて拡げる時間を過ごしたい。そんな風に思っています。